2022年07月30日

研修会へ

7月30日(土)

今日は久し振りにガイドの会の研修会で、山国町から日田市へ英彦山ゆかりの
地へ向かいました。
まずは野峠を下り、毛谷村六助の伝承地へ。

・写真をクリックすると、拡大されます。

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六助の墓を訪ねて、私設「毛谷村六助資料館」で資料を見学し故事来歴など、館長さんの
丁寧な説明を受ける。

彦山権現に祈願してこの毛谷村に住む夫婦に授かった六助は、力持ちで親孝行だったそうな。
彦山豊前坊で天狗から剣術を授けられたともいわれ、成人した六助は、加藤清正の家臣となり、
名を貴田(木田)孫兵衛と改め、文禄の役の際には、各地で功を立てたという。
彼の名が人々に知られるようになったのは、『彦山権現誓助剣』(18世紀末)という仇討ちを
物語とした歌舞伎によってである。

武勇伝あり仇討の助っ人もありの、波乱の生涯を送った伝説の人毛谷村六助の墓は、集落の
中ほどにあり、近くには駐車場や案内板も整備されている。
歌舞伎にもその名を残し古里の誇りとして伝承され、英彦山の験力と共にこれからも
語り継がれる毛谷村六助です。

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山国町守実の、三所権現。

山国町は、山国川最上流に位置する渓流の町。
その源流となるのが英彦山であり、信仰の地としてもその影響を色濃く受け、また、古くからの
交通の要衝としても賑わいをみせた。
 
中津市山国支所ホームページより抜粋。
「山国」という地名が初めて文献に登場したのは、西暦713年の「豊前風土記」中です。
「高瀬川(現在の山国川)は下毛の奥なる山の国より流れ出で、その源は彦山の東より出る
大川なり。この川に沿って登れば山国谷に至る。この谷深くして村里多く風景宜しき処なり。」
と、記載されています。

その守実にある三所権現は、英彦山の神領へ立ち入る起点となる地域に設けられた、
「大行事社」としての役割がその起源です。

明治期の英彦山の座主、「高千穂信麿」の名が刻まれた鳥居の奥に緩やかな参道が続いている。

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日田市の、咸宜園へ。
江戸時代後期に生まれた儒学者・廣瀬淡窓が豊後・日田に開いた私塾(学校)です。

元来英彦山は向学心に篤い土地柄で、室町時代にはすでに、四王寺と云う学問所があり、
近在の子弟が通っていたようで、そのうちの一人の少年を題材とした謡曲「花月」が
世阿弥元清により世に出されている。
四王寺があったという谷は、氷瀑の四王寺滝ですっかりお馴染みですね。

山伏の階級にも修験道の教義だけでなく、さまざまな分野の学問専門職があったと云い、
修行だけに明け暮れていたわけではなかった。

時代を経て、江戸後期の詩人、儒学者であった広瀬淡窓が現在の日田市に起こした私塾
咸宜園にも英彦山山伏の子弟が学んでいる。
淡窓の弟子、長梅外・三州親子が英彦山に私塾を設けたのもこの頃で、その跡が参道の中程にある。
山伏は人々の指導者の立場でもあったので、心身の鍛錬を怠らずに続けられたということになる。

内部見学の後、当時の塾内での子弟たちの暮らしぶりや、厳しくも熱気に満ちていた学習内容などを
拝聴し、時間はアッという間に過ぎた。

お世話になった方々、有難うございました。
有意義な研修会になりました。








posted by yamahiko at 21:43| ガイド